人のために生きることへの疑問。

私を必要としてくれる人がいる限り死んではだめだと感じた。ってこれ全然積極的な生き方ではない。大体普通の人って誰かに必要とされてるんだろうか(会社とかに入ったらそうなのかもしれない)。少なくともモラトリアム期を生きる私にとってほんの少しでも社会に或いは周りの人々に必要とされたなら、それはかなりすごいことで有り得ないことで本当に一握りの人物だけだろとか思ってしまう。仮にそうだとしても、それを誰かが口に出して言ってくれることなんか無いし、すると自然に気付きもしない。じゃあだから死ぬかって言うとそうでもなくて、みんな自分がやりたいことがあるから生きてる。死にたくないから生きてる。しょうがないから生きてる。でもこれって冒頭に書いた文に比べたら幾分積極的かなと思う。少なくとも自ら判断をくだしているという意味では。





たまに死がすごく身近に寄ってくることがある。それは死にたいとか自殺したい云々の類では全くなくて、現実的に死を見つめることができるという意味です。自分が今死んだらこうこうこういう手続きが周りで行われて、第一発見者はこんな風に対処して、悲しんでくれる人が数人いるかもしれなくて、私が死んだことを生涯知らないままの遠い知人もいるかもしれないとかグダグダグダ。
こういうことを考えると死にたいとか半端に思うより数段こわくなって、冷静にこわくなってしまう。このたまにって言うのは本当にたまにで、このチャンスを逃すとしばらくはこの感情を感じることもできなくなる。この感情を感じることは自分の中ではとてつもなく重要な気がする。






何が言いたいのか良くわからなくなったけれど文長いな。カビキラー神。